5リットルの空気

 

 刀を外し後を追って暗い海へ飛び込んだ。
 ずぼりと水へ入った瞬間、入水の刺激で夜光虫が一斉に光った。暗い水に思いのほか明るい光が自分の身をつつむ。発光生物特有の青緑色の冷たい光がまたたいてそれからすうっと消えていく。現実感がまるでない。海水は気持ち悪いくらい生ぬるかった。頭も冷えやしねえ。
 光をたどればすぐに見つかるんじゃねえか、という淡い期待はすぐに裏切られた。暗い水の中はさまざまな音が満ちていて気配が探れない。ただでさえ水中は不利だ。頭を海面上に出して探るが、辺りに人間のいる様子はない。船のシルエットが暗い空を背負って数メートル先に存在している。まさか、おぼれたのか?
 あの男に限ってそれはないはずだ、とおれの理性は言う。でももしも何かに引きずり込まれていたら?夜の海は危険だと、誰よりも言っていたのはコックだったのに。立ち泳ぎのために動かす手足の辺りが淡く光を放つ。掬っても掬ってもつかむことのできない光はまるでおれをバカにしているようだ。

「おい!」
 大声で呼んだが返事は波の音だけだ。見失ったという焦りと原因のはっきりしない怒りで身体が破裂しそうだ。
「チクショウ、アホコックの野郎!」
 呪詛のようにわめき散らす。湿気をはらんでまとわりつく大気。まとわりつくぬるい海水。はぐらかして逃げるコック。何もかも中途半端な様子が我慢ならないほど鬱陶しい。我慢なんてくそくらえだ。この曖昧な状況をぶち破りたい。はっきりしないものをさらけ出して確かなものにしたい。あの男のまやかしの上っ面を引き剥がし中身を力尽くで暴き立てたい。

 取り乱すのと大差ないんじゃねえかというほど頭に血を上らせて無様な様子で船を中心に泳ぎ回り、船尾近くの舷側を背にしてこちらを見ているひっそりとしたコックの気配にようやく気付いた。 無駄に泳ぎ回ったせいでなかなか整わない息のまま少しずつ寄っていく。
「逃げんじゃねえよ」
「何で追ってくる?」
 おれの言葉にコックは質問で返した。結局自分のことは何も語らない。語らないなら言葉は用をなさない。捕まえて行動で示すしかねえじゃねえか。おれはじりじりと近づきながら答えた。
「おまえが逃げるからだ」
 距離をつめる。水中では相手の動きが格段に上だ。少しでもいいポジションを取ろうと慎重になる。
「おれはてめぇのその行動の理由を聞いてんだ」
 負けず嫌いの男は言う。
「うるせえ。何一つ言わねえのはてめぇじゃねえか。おとなしく捕まりやがれ」
「やなこった。なんでてめぇの言う通りに捕まらなきゃならねえんだ。てめぇ、いったい何がしてえんだ」
  何がしたいか?
  奪ってでも手に入れたい。手に入れて自分のそばに留めておきたい。瞳をのぞき込んで押しかかって組み伏せて泣こうが喚こうが自分のものにしたい。
 突如、脳裏に浮かんだ自分のイメージに愕然として言葉を失う。
 おれはこんなことがしたかったのか。こんなことを考えていたのか。アホコック相手に。今まで曖昧だったのは状況じゃない。コックの態度でもない。おれの感情の方だ。コックは多分わかってた。何もかも分かってたから、バランスを保って、距離をとって、おれを拒んで、逃げ出したんだ。
 でももう遅い。

「おまえをおれのものにしてぇ」
 正直に言った。言いながら更に間合いを詰めていく。もう少しで手が届く。
「口説き文句だとしたらサイアクだ」
「口説かねえよ。宣言してるだけだ」
「本当にバカだな、てめぇ」
「おれをバカと言っていいのはおれだけだと言ったよな」
 言うや否や、ヤツの腕を掴んで引いた。片腕をとられてバランスを崩したコックはおれの腕の中におさまった。

 はじめてだ。

 欲しいと思っていたものが。我知らずずっと欲しいと思っていたものが思いがけなく自分の手の内に入ってきた。
 それはあまりにも唐突で嬉しいと思う余裕もなかった。ただ驚きが勝った。 それでも身体は動いた。前から一度やってみたいと思っていた、この男の目を間近でのぞきこむ。暗い夜の海の色をした瞳が瞬きもせずにおれを見つめ返す。青い色が見えない。薄墨の闇がおれとこの男を等しく塗りこめて、おれもコックも、おれたちが今浸かっている海も全てが無彩色の闇に沈んでいる。いつも鮮やかに光るこの男そのものである青い色を求める。海のようなあの色が見たい。どこに隠したんだ。あれが見えさえすれば。

 近寄りすぎて狭まった視界の隅にコックが動くのが映った。器用に身体をひねって態勢を整える気配は感じたのに何をするのか一瞬わからなかった。水中のこの狭い空間でという油断があったのかもしれない。自分の考えに深くはまり込んでいたからかもしれない。あ、マズイと思った瞬間、肩のあたりにとてつもない衝撃をくらって、仰向けの態勢で水に沈んだ。コックが渾身の力で蹴り飛ばしたのだ。激しい水音が響きわたる。掴んでいた手が思わず外れる。ご丁寧にもう一発激しく蹴りこまれた。海中深く沈めとばかりに。

 息を吸っておく間もなかった。ごぼりと海に沈んだ。塩辛い海水が喉に流れ込む。こりゃシャレにならねえ落ち方だ。

 人間の身体は浮くように出来ている。半分は正で半分は誤だ。ある程度の水圧がかかれば、浮くことはできない。
以前コックががそう言っていた光景が不意によみがえる。
あれは明るい甲板で、コックは泳ぎのコツや水中での注意事項を年少組に教えていた。
 人間の肺に入る空気は平均約5リットル。残念ながらトナカイは知らねえ。屈託のない笑顔。潜るときは深呼吸を何回かして二酸化炭素を身体から追い出してから。リラックスして水とオトモダチになれ。楽しそうに話していた。眩しくて目にうるさかった色鮮やかな光景。こんな無彩色の景色ではなく。いまいましかった夜光虫の光さえ今や消えた。呼吸を整える間もなく沈められて息が続かない。食いしばった歯の間から空気の泡がもれていく。月のない夜の暗い海は上下左右があやふやになる。どれだけ深く蹴り飛ばしやがったんだ。水中の注意事項とやら全部無視じゃねえか。殺す気か。雑多な思いがいっぺんに頭の中にあふれかえって考えがまとまらない。
ザマねえな。もっと早くから自覚しておくべきだった。いや、違うな。理性ではとうてい飼いならせない感情なんざ自覚があってもなくても結果は変わらない。だから、
おれに必要だったのは。
必要なものは。

 いよいよ酸欠状態になってきて頭がガンガン痛み始めた。ああクソッ、早く浮上しなければ。海面はまだか。チクショウ、空気がほしい。

 突如、腕をひかれた。さきほどおれがあの男にやったのと同じように、今度はおれがコックの腕の中にとらわれた。やられたらやりかえすってか。意識の片隅で思う。それより空気を。そう思ったおれの肺に酸素が吹き込まれた。口移しで。
 一気に身体が軽くなる。酸素を求めて与えられるものをむさぼるように吸う。腕をコックの体にまわし、離れないようにきつく抱きしめる。お互いにあわせた口の隙間から漏れ出た空気が細かい泡となって立ち上る。

 生きるためにこれが必要なんだ。抱き合ったまま浮上する間、酒に酔ったこともないのに酩酊したような気分でひたすらにそう考えた。

 頭が海面に出た。空気中に露出した部分だけが軽い。音が急速に戻ってくる。せわしなく何回も呼吸する。みっともないほどゼエゼエと大きな呼吸音が波の音に混じる。

 人間は空気のないところでは生きられない。海の中では生きられない。

 空気は好きなだけ吸えるのに。おれをとりまく大気はいまや無限にあるのに。この男がおれに与えるものだけがおれを生かす。おれにはこの男だけが。

「おまえが必要なんだ」
 苦しい息で切れ切れに言う。口説き文句じゃねえかと思う。
それから力まかせにひきよせて、この男の肺の中、たった5リットルの空気を求めてくちづけた。
 

 男は抵抗しなかった。

 

  

 

end