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雲居なす

3.

 いつもの如く遅くなった。
 二年間という限られた時間で成果を出したいという気持ちもあって、サンジがラボにいる時間は長い。できるだけ多くの実験を行い、考察を重ね、結果を残したい。せっかくなのだから私生活ももっと楽しみなさいよと言う輩もいるが、この国へは研究をするために来たのだ。プライベートな生活をエンジョイするためではなく。私生活は振り捨てる覚悟で。実際に、捨てて。

「メシ食ってくか」
 サンジと同じく遅くまで残っていたトラファルガー・ローという男から声をかけられた。ローは医学畑出身で、時間医学の見地からの研究をしたいとプロジェクトに参加している。

「いいぞ」
 空腹だったので気安く返事をする。ラボのメンバーの中でもローは話し易い。口数がたいして多くないからかもしれない。言葉にはだいぶ困らなくなったとはいえ、喋りっぱなしでいなくてはならないのはまだちょっと苦手で、沈黙でも気にしなくていいローのような相手は気楽なのだ。

 ラボからほど近いビストロで定食をとり水代わりのワインを飲む。閉店時刻になって店を追い出され、連れだって帰途につく。

「おまえ、大丈夫か?」
 ローがサンジを気遣って声をかけた。疲れていたのか、少し飲み過ぎたのか、サンジは普段より酔っぱらっているようだった。
「へーきへーき」
 無責任な発言に、コイツ、酔ってるなとローは思った。
「部屋まで送るぞ」
「いらねーよ、レディじゃねえし」
「フラフラしてるのを見てられねぇ。生きたお前を最後に見たのがおれなんてのはごめんだ」
「心配性だなあ」
 サンジはへらりと笑った。人から心配されるのは悪くない気分だった。

「心配されたくなけりゃ、しっかりしろ。できねぇなら送る。住んでるとこはどこなんだ?」
「んー…、イースト地区の11番街」

 ラボの仲間とはいえ、サンジは今まで誰かに部屋の場所を教えたことはなかった。誰かを呼びいれたことも、連れ帰ったこともない。相手は、気の張らないローだ。まあいいかなという程度には気が緩んでいた。

「気をつけろって」
 おぼつかない足取りでふらりと傾いたサンジをローが支えた。酔っぱらったサンジを心配したのだろう、取った腕を放すことなく、サンジを抱えるようにしてローが歩く。他人の体温がもたらす温かさが久しぶりで、サンジの気持ちはますます緩んだ。

 

―― 異国の街で一人で夜遅く真っ暗な部屋に帰るよりも、誰かと一緒の方がいーよなー……。

 

 酔った頭で考える。
 ローとウチで飲み直してもいいなー。ちゃんと掃除してないが、そんなに散らかっているわけでもなし。冷蔵庫の中に何があったっけ?家へ帰り着くルートと部屋の様子を頭の中でトレースする。思い浮かべてハッとした。暗い廊下。暗い玄関。ドアを開ければきっとあれが落ちている。ゾロからの手紙。だめだ。おれ、何やってんだ。

 

「悪ィ。大丈夫」
 サンジはローを押しのけると距離をとって、背筋を伸ばした。酔いを振り払うように頭を振って気を引き締める。急にしゃんとしたサンジに、ローが疑わし気な表情をする。しばらくサンジを眺めてから肩をすくめた。が、別に感情を害したり気にした様子はなかった。ローのそういうところはありがたかった。

 それから二人で黙ったまま、足音だけを聞きながら歩く。サンジの酔いはすっかりさめた。

 

「門立てて戸は閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる」
 ふいに口をついて言葉が出そうになり、あわてて飲み込んだ。人の気配に敏い隣を歩くローが聞きとがめた。
「どうした」
「いや、なんでも」
 誤魔化そうとしたが、先程のこともあって正直に言おうと考え直す。
「……ちょっと独り言、言おうとした」
「ああ」
 ローは納得したように薄く笑った。
「言いたきゃ言ってもいいぞ。おまえの国の言葉だろ。どうせ分からん」
「ははっ」
 サンジは思わず笑ってしまった。

「実を言えば、おれにも意味は分からない」
「なんだそりゃ?」
 呆れたように言う背の高い男を、サンジはおかしいだろ?と目を細めて見上げた。他愛のない会話に紛れさせて、誰かに言いたかった。

「なんかさ、古い古い言葉なんだと」
「古くても意味くらいわかるだろ」
「いや、それがさっぱり。歌なんだってさ」
「歌?」
「歌っていってもメロディがないから、詩って言えばいいかな。古い言葉を使った歌だから、おれも意味は知らねぇ」
 言葉を探しながらサンジは語った。多分、誰かに聞いてもらいたかった。
「その歌が……ときどき、脈絡もなくふと、心に浮かぶんだよ。そういうことってねぇか?」
 連日のように送られてくるその歌を覚えてしまうこと。その手紙に返事を出せないでいること。思われていることに応えられないでいること。送ってくれる男のことを、まだ思い続けていること。自分から別れようと言ったくせに。
 
 本当はもっと色々語ってしまいたかったが、さすがにそこまでは口に出せなかった。

 ローはしばらく無言で考えた。きっと誰かの口癖か、誰かから送られた歌なのだろう。そして、それを無意識にでも口にするということは、その誰かを思い出しているということなのだろう。

 サンジという男は、どこか放っておけない気がする。人懐こくて誰にでも扉が開いているようにみえて、実は本当の扉は厳重に閉ざされている。しかも硬く鍵がかかっている。つい構ってしまうのは、その鍵を何とか開けてみたい気にさせられるからだ。ローはサンジの頭に手を載せると、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜて言った。「そういうこともある」

 何すんだ、と言おうとしたサンジは、ローからの同意に言うタイミングを失った。言葉にしなかった部分を分かってもらったような気になったからだ。

「気を付けて帰れ」
 分かれ道まで来るとローはそう言ってあっさりとサンジのそばを離れた。
「また明日な」
 サンジが声をかければ、ローは振り返りもせずに手を上げた。遠ざかる後姿に、サンジは背を向けてひとり部屋へ帰る。

 

 ゾロからの葉書は今日もサンジを玄関先で待っているだろうか。

 

 

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