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雲居なす

 

5.

 煤けた古いアパートの1階、階段の入り口付近に備え付けられている集合ポストは今日も空だった。
たいして期待はしていないので、がっかりはしない。いつもだったら入っているデリバリーピザやアダルトチラシや廃品回収などの投げ入れ広告さえもなくて、拍子抜けした程度だ。そのまま外階段を上って二階の一番奥の自分の部屋まで歩く。バッグからキーホルダーを取り出して鍵を開けた。

「……ただいま」

 部屋は、朝、ゾロが出かけたときのままの様子で、返る答えなどない。一人暮らしなのだから当たり前だ。
 それでも一瞬、耳をすまして気配を探ってしまう。

「おう、おかえり」と声がかかるのではないか。
 奥の狭い台所から何か料理をしている音が聞こえるのではないか。
 温かくて心がホッとするような匂いが空気の中に紛れていないか。

―― そんなワケねぇよな。

 蘇る記憶が勝手に作る幻を振り払う。

 渡した合鍵は、返されてしまっていたのだから。

 靴を脱いで部屋に上がる。靴を揃えることは忘れなかった。

 かつて、帰宅したら「ただいま」と言え、誰もいなくても言えとゾロに教え込んだのはサンジだ。年上の恋人。靴を脱いだら揃えろ、とも言った。手を洗え、酒ばっかり飲むな、課題は期日までに必ず提出しろといった日常の細々とした注意事項から、「自分の才能を無駄にするな」といったゾロにはよく分からないことまで、たくさん聞かされた。そりゃその通りだな、と思うこともあれば、うるせえなと思ったこともあった。出来ることも、出来ないこともあった。

 サンジが行ってしまってからは、そんなことをゾロに言う人間は一人としていない。

 
 サンジから「留学する」と聞かされたときは心底驚いた。ずっと一緒にいるものだと信じていたからだ。しかし、これからも続く時間の中で一時的に離れることがあるのは致し方ないと思い直した。できたらいつも一緒にいたい。いつでも傍にいたい。それが本音だが、相手の時間も生き方も尊重したかったから、サンジのチャンスを止める気はなかった。
 ただ、外国へしばらくの間行くことが、どうして別れ話になるのか、その論理がさっぱりわからなかった。嫌いになったわけでもないのに。

「無理だろ、そんなの。分かれよ」
 自分一人で出してしまった結論を一歩も譲らずに、ゾロに押し付けようとする態度に、苛立ち、腹をたて、口論となった。いっそのこと泣き落としでも使おうかと思う位には打つ手がなくなっていた。それでも「別れない」と言い続け承諾しなかったのは、納得できなかったからだ。
 最後は、ため息をつきながら、「わかった。てめぇの勝手にしろ、ただし、おれも勝手にする」そんな風に言われてしまった。
 腹が立ったが、どうしようもなかった。少なくとも、ゾロがサンジに対して何か働きかけをすることは認めてもらえたということだ。

 自分に何ができるだろうか。

 ゾロは懸命に考えた。

 始まりは、一目惚れで、ゾロが一方的に好きになり、強引に口説きおとした自覚はあるけれど、サンジが返してくれた思いは本物でゾロを本当に大事にしてくれた。それに自分は応えていただろうか。

 サンジが好きだった。でもそれだけだった。相手からの愛情をむさぼるだけで、自分から与えるものは何もなくて、サンジが傍にいるのが当たり前のようになっていて、与えられたものを消費するだけの三年間だったんじゃないのかと今更ながらに気付いた。

 サンジに何か返したい。

 とりあえず、離れた距離を埋めるためには、何か手段を講じなければならない。あっさりと去ってしまったサンジ本人からは連絡先を教えてもらえなかったので、共通の友達であるナミからサンジの連絡先を聞きだした。
 
 電話。メール。ライン。
 どれもあまり得意ではないが、背に腹は代えられぬ。しかし、電話をかけても出なかったり、留守電だったりと、なかなかつながらなかった。研究室に入り浸っている様子のサンジの手の空く時間帯がまるで分からず、しかも時差があるため電話をかけるタイミングは非常に限られてしまう。メールを送っても返信は滅多になく、ラインもいくら待っても既読がつかなかったり、既読がついても返信がなかったりとコミュニケーションがとれなかった。

 避けられてるなと思った。当然だ。一度は「別れよう」と言われたのだから。けれども「勝手にしろ」と言われたのも事実だ。何ができるだろう。

 サンジが自分にしてくれたことを考える。
 サンジはいつも料理を作ってくれた。あれには気持ちがこもっていて、それと同じように少しでもサンジに返したいと思うのだ。
 ちゃんと学校行って授業しっかり受けろよ。メシ食えよ。剣道もいいけどよ。それはそれですげぇことだと思ってるよ。だけど、ほかのことも疎かにすんなよ。そう言ってゾロを気遣いいつも心配してくれていた。一緒にいた頃は、気づけなかったけれど今なら分かる。それを表したかった。サンジが自身の研究のために海外へ行くのなら、自分もふさわしい人間になりたいと心から思った。

 まずは授業をきっちり受ける。剣道の推薦で入学した大学生活は、学校公認で授業よりも部活が優先されていた。そもそもがどの学部でも結構ですと言われ、勉強に全く興味のなかったゾロは、国語だったらなんとかなるんじゃないかと安易な選択により専攻学部を決めたのだが、折に触れ、対象が何であれきちんと学ぶことの大切さを説き、熱心に研究にうちこんだサンジを思って、ゾロは部活も授業も真剣に取り組むようになった。サンジに任せきりだった生活態度も意識して改めた。

 ちゃんとやっている。大丈夫。毎日、きちんと日々を過ごしている。サンジが教えてくれたことを自分の糧にかえて。

 ある日、授業で和歌の講義を受けた。これだと思った。滅多に会えない相手への強い思いを伝える歌は、限られた字数であっても力強かった。気持ちを表すのに有効な手段は、便利な機械に頼った連絡手段ではなく、自筆の手紙なんじゃないか。これだったらサンジへ届くんじゃないかと。
 サンジも料理には手を抜かなかった。ゾロには面倒そうに見える下ごしらえも、自らの手で丁寧にやっていた。今までついぞ手紙など書いたことはなかったが、すぐさまペンと葉書と切手を買い込んで、歌を探した。良いと思える歌は数限りなくあり、自分がいいなと気に入ったものをサンジにも伝えたかったからだ。それに、自分が書くとしたら「会いたい」しか書けない気がしたからだ。

 手紙の返事が来たことなどないけれど、宛先に該当無しで返送されてきたこともないので、きっと届いているのだろう。
 かつてサンジが言っていた通り、元気に学生生活に励み、サンジがいなくても投げやりになったりせずに日々を過ごしていることを伝えたい。そして、今も変わらず自分がサンジを思っていると伝えたい。サンジがそう感じてくれたらいいと期待を込めて、今日も葉書をしたためる。

「遠くあれば一日一夜も思はずて あるらむものと思ほしめすな」黒々と歌一首。

 サンジからの応答がない以上、今のゾロにはそれしか出来ない。

 

―― 会いてぇな。声が聞きてぇ。

 サンジが傍にいてくれたことは、当たり前なことではなかったのだとひしひしと思う。

 寂しいが、異国にいるサンジに比べたら自分は恵まれていると思うから、その言葉は言わない。

 ペンを置いたとき、ゾロの携帯が鳴り出した。

 

  ディスプレイに表示される+で始まる長い数字の羅列は海外からの着信を表していた。

 

 

 

end

 

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ロノアが送った和歌は いずれもが一文字多くて三十二文字
(字余り) 

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