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雲居なす

1.

 暗い部屋に帰り着くのにも慣れた。固いタイルの廊下に自分の足音が反響する。午後10時。深夜ともいえない時刻なのに、夜の早いここの住人たちは寝静まっているようで、建物はひっそりとしていた。ゆっくりと自室のある3階まで階段を上る。エレベータなどという現代的な設備は設置されていない古い建物なので、どんなに疲れていても重い荷物を持っていても自分の足で歩かなければならない。廊下の照明は必要最小限だ。自室の重く冷たいスチールのドアの鍵穴に鍵をさし入れる。古さのせいか、作りが甘いせいか、鍵穴はゆるく、シリンダーにカチリとはまった感触が返ってこない中途半端な手応えに毎度不安になる。こんな時間のこんな場所でドアが開きませんでした、なんていうのはシャレにならない。たかがドア一枚なのに、いつも祈るような気持ちで鍵を回す。ちゃんと開きますように。

 それから。

「ただいま」

 誰もいないのはわかっているが、帰宅の挨拶を口にするのは身にしみついた癖だ。

 靴を脱ぐ習慣のないこの国には、玄関もたたきも存在しない。外と内を隔てるのは一枚のドアだけで、それを開ければ部屋へと続く廊下とも言えないほどの狭いスペースがある。

 手探りで壁にある明かりのスイッチを入れると、照明が足下に散らばる郵便物を照らし出した。ドアの内側に郵便受けとなるボックスが取り付けられていないので、新聞も広告も手紙も、扉の中ほどに切られたスリットから落とされて全て床に落ちる仕組みだ。はじめは慣れなかったが、どれだけ長期間留守にしても、郵便受けがいっぱいにならないのがメリットだと教えられて、そういうもんかと納得した。

 床には、直接投げ入れられたのだろう近所のクリーニング屋の広告チラシ、水道代の請求書、洋服のセールのダイレクトメール。そして、エアメールの葉書が一枚。

 今日も来ていた。

 明かりをつけるのは、これらを踏みつけないようにするためでもある。

 全部拾い上げて部屋に入る。

 着替えて洗面所で手を洗う。とりあえず、お茶でもいれようとやかんを火にかける。煙草にも火をつけて、沸騰するのを待つ。小さなキッチンの窓から見える外は、ナトリウムランプの街灯が照らし出すオレンジ色に染まった妙に現実感のない住宅地の景観で、サンジはそっとカーテンを閉めた。物の色味が曖昧になるあの色の照明は落ち着かない。利点は理解できるが、サンジが慣れ親しんできたものとは違うので、どうにも慣れないのだ。

 この国に留学して半年。

 言葉も文化も生活習慣も何もかもが違うことに最初はひどく戸惑った。それでも、自分が望んで来た場所でもあり、弱音も愚痴も吐くまいと夢中で日々を過ごすうちに少しずつ違いに慣れていった。むろん、未だに慣れないことも知らないことも分からないことも多いが、日常生活はさほど困らない。

―― 困るのはむしろ……

 サンジは、本日届いたエアメールを眺めた。横書きの絵はがきの表面、右半分が宛先、左半分に短いメッセージが書かれている。裏面は、糸状の細い花弁が花火のように広がる黄色い菊の絵で、端の方にsagagikuとあるのが花の名なのだろう。差出人はロロノア・ゾロ。メッセージはたった一首。

「さ寝る夜は 多くあれども 物思はず 安く寝る夜は 実なきものを」

 自国の古い言葉は外国語よりも馴染みがなくて、書いてある文字は読めるのに意味が全く分からない。まるで何かの呪文のようだ。

―― 分かんねえよ、アホ。

 差出人に真意を問いただすのも、意味を調べるのも、やろうと思えば簡単に出来ることだがサンジはしなかった。そんな手紙がだいぶ貯まった。

 時間を確かめれば、この国よりも先に朝を迎える送り主の国は翌日の明け方の時間帯で、まだ寝ているだろうと思って電話もしない。郵便なんて不確かな手段、着くかどうかアテにならない。そんなことを言い訳に返事も出さない。

―― どうすりゃいいのか、分かんねえよ、アホ。

呪文のような短い文面を指でなぞった。

 

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