窓ガラスに降りかかる雨粒ごしに見る街の景色が時速50キロで流れて行く。市街地に入り交通量は増えたが、幹線道路に渋滞はない。この分だと時間より少し早く目的地へ到着できるだろう。ゾロはタクシーの後部座席に深く座りなおした。

 学生時代を過ごしたこの街を訪れるのは久しぶりだ。勤務先も今の住まいも必ずしも遠いわけではないのに、足を向けることはなかった。今日だって、この街に拠点を構える顧客を訪問するためでなければ、それからゾロの出身大学を知っている先輩が「ロロノア、おまえ土地勘あるよな」などと言い出さなければ、ゾロが一人で来ることはなかっただろう。

 この街が嫌いなわけではない。あっけらかんと明るいよく晴れた夏の日の青空のように、先のことなど何も気にせず仲間達とさんざんバカをやりあった楽しい記憶に満ちた懐かしい街。ただ、あの頃ずっと感じていたおさまりのつかない気持ちに未だに答えを出せずにいる自分がいて、それが好きでないだけだ。何に起因するのか分からない不穏な感覚。何の憂いもない夏空のどこかに激しい嵐の種が潜んでいるように。開放的な街のつくりや雰囲気にもかかわらず、見えない何かに出口を塞がれたような感覚。どこにも行けないような。そして。

 どこにも行かねえよ。と、この街でコックをしている男のことを考える。

 あの頃、ゾロに向かって「てめえスポーツマンなんだったらまともなもん食え!」「体は食べたもので出来てんだぞ」と口うるさく言っては料理をふるまってくれた男。大学卒業と同時に、実家へ帰ったり、もっと大きな都市で就職したりと、散り散りになった仲間達とは違い、この街に留まった男。

 不意にスーツの胸元に入れてあるスマホがふるえた。ろくに相手を確かめもせず応答しようとしたところで呼び出し音はぷつりと途切れた。非通知の着信表示に、間違い電話だろうかと訝しみながら胸ポケットにしまい込もうとしたとき、それは耳に飛び込んできた。

 ーーー いざという時に食べたいものは何ですか。

 乗車したときからつけっ放しのカーラジオ。番組司会ののんきな声がゾロに向かって問いかける。思わずラジオを凝視した。いざという時に食べたいものなど。脳裏に鮮やかなイメージが浮かぶ。考えるまでもない。

 ひょっとしてこの着信はあの男からなのではないか。

 なぜか突然そう思い、思いついたらたまらなく声が聞きたくなった。登録してあるアドレスからここしばらく使わずにいた番号を呼び出して発信ボタンを押す。いま、この衝動をのがしたら、連絡などできないような気がした。
 何回かのコールの後、かつてよく知った声が耳をうった。冷静で少しそっけなく、低くてやわらかい声。その声を聴いた途端、今までどうして連絡をしなかったのだろうと思った。ボタンひと押しでこんなにも簡単につながるのに。どうして連絡が来なくなったのだろうか、とも。この声を欠いた生活を、どうして送ってきたのか。

 非通知の電話をかけてきたのは相手だと根拠もなく信じきっていたのに、応答する声の調子にそれらしき気配はなく、拍子抜けしたような安堵したような気持ちになって、曖昧過ぎる単語しか吐けなかった。軽口をたたきながらも、たいして不審がる様子もないやりとりに、昔にもどったような気がする。口下手で言葉の不足しがちな自分のことをよく理解してくれていた。足りない部分を上手に補って場をとりもったりもしてくれた。ともすれば誤解を招きがちな自分の言動を分かって、肝心なところではおせっかいにならないようにしながら、いつでも傍にいた。耳に当てたスマホの向こうから、懐かしい甲高い金属音がかすかに聞こえる。ライターの蓋を跳ね上げて、目を伏せて咥えた煙草に大事そうに火をつける様子がありありと浮かんだ。吐き出す煙の煙草のにおいさえ蘇る。そんな些細なことを覚えている自分の記憶力にゾロは少しだけ呆れた。

 営業時間を聞き、通話を切った。何か用事でもあるのか、閉店の時間を告げる声は少しばかり怪訝そうで、あの男の最近の状況も知らず、店に行くのは迷惑だったろうかと考える。しかし、この街に来て、声を聞き、顔を見ずに去ることは、出来ない気がした。
これから客先で打ち合わせして、報告書を作成し、会社へ提出したとしても閉店までには店に行くことができるだろう。
いささか間抜けな音とともにリズムを刻むフロントワイパーの動きを眺めながら、ゾロはそんな算段をした。

 

 その夜、ゾロは店に現れなかった。

 

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