「ごめんなさい、ほんとうに…」
「もういい。何度も言わせるな。」
重ねかけた謝罪のことばを呑み込んだ同僚の情けない顔に、ゾロはひとつ息を吐いて苦笑した。自分はそんなに相手を恐縮させるような態度をとっているのだろうか。多分そうなのだろう。昔よく、あの男に窘められた。
――たくさんしゃべる必要はねえが、最低限の説明はしろ。誤解されて損するのも、周りにいらねえ気を遣わせるのも、莫迦らしいだろ。
何気なく聞き流していたあの男のことばが、折々に浮かびゾロを助ける。
「……別に怒ってねえし、謝ることじゃねえだろ。そもそもおまえの非じゃない。」
非通知の発信元は、同僚のたしぎという女だった。有能だが、押しが弱い。先輩に急に押し付けられ向かった取引先の社長が昔気質で気難しい、つまり、男尊女卑のジジイで、女一人寄越すような会社とは取引しないと散々理不尽な対応をされて追い返された。ゾロがその社長に妙に気に入られていることは社内でも有名で、助けを求めて咄嗟に発信ボタンを押したが、つながる前に思い直して切ってしまったのだという。だが、その会社の事務の女性が気を利かせてこっそりゾロに連絡をくれたのだった。今さっき来た御社の女の子、追い返されちゃったわよ。
予定の打ち合わせはあっさりと円満に終了し、ゾロは再びタクシーに乗り込んだ。たしぎと合流し、その場で改めてアポイントの電話を掛け、すぐに連れ立って再訪問した。社長はそれでいいと鷹揚に頷いた。大した用件ではないから先輩もたしぎに押し付けたのだろう。だからこそ。隣に座るたしぎが、膝の上で両の手を口惜し気に強く強く握っているのを目の端で捉えながら、ゾロは当り障りのない態度で簡単な打ち合わせを終えた。
閉店時間には間に合いそうもなかった。お詫びにとたしぎから食事に誘われた時も、あの男との短い電話が頭の隅を掠めたが、約束をしたわけでもなかった。そしてきっと、あの男なら落ち込んだ同僚、しかも女の誘いを無碍に断ることを良しとしないだろうとも、おもった。
会社近くのチェーンの居酒屋で、ひとしきり恐縮し謝り倒したたしぎが、少しだけ愚痴めいた弱音を吐くのを聞き流す。男女差はあって当然だが、女だから劣るなどということはない。仕事をする上で、たしぎがどれだけ有能かは一緒に働く社員は皆知っている。しかし、それが通用しない場面も、残念ながら時にあるのだった。
たしぎはジョッキ一杯を空にしたところで、さっぱりと話題を変えた。いつまでもくよくよ言わないところは好感が持てるし、やはり有能な人材だと、おもう。
「今日の打ち合わせ、ひとりだったんですね。めずらしい。」
「ああ、学生の頃住んでいた街だから、土地勘があるだろうって、」
「土地勘…?ロロノアに?」
何故かたしぎは胡散臭げな顔をした。
「今でもよく行くんですか?」
「いや。久々だった。飯屋をやってる奴が残ってるくらいで、知り合いもいねえし。」
喰いたい奴には喰わせてやる。安くて旨いレストランを作る。多くの学生が夢と現実に折り合いをつけて無難な就職先を決めていく中で、きっぱりと夢を語り、決してぶれなかった。そして、夢を現実にした。そういう男だった。サラリーマンとして堅実に働く自分が劣るとはおもわない。けれど、あの男が選んだ生き方をまぶしくおもうことがある。
店内の喧騒の後ろでずっと流れている音楽を急に耳が捉えた。いざという時に食べたいものは、などという問いを投げかけられたタクシーの車内で、あの男と通話しているときにラジオから低く流れていた音楽だった。普段なら気にも留めないそんな些細なディテールをくっきりと覚えているくらいには、昼間のあの短い通話は、ゾロにとって重要だったのだ。気付かないフリをしてジョッキの底にわずかに残る金色の酒を呷った。
「……もしかしてそのご友人のところへ行く予定だったんじゃ、」
たしぎの案外鋭い科白に、ゾロは自分でも驚くほど自然に即答していた。
「まさか。」
――おれには帰る場所も、失うものもねえから。
夜明けの街を見下ろしながら、煙草の煙に紛らすようにつぶやいたあの男の穏やかな声と、諦めたような横顔を、不意におもいだす。ざわりと腹の底が騒いだ。あの時ゾロはどうしたのだったろうか。おもいだせなかった。
ひどく逢いたいとおもった。それと同時に、今夜あの男に会いに行かなかったことに、安堵している自分がいた。
そして、一度タイミングを逃してしまえば、あの近くて遠い街へ出向く機会は見つからなかった。
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